あらすじ
沖縄戦で動員された女子学徒隊は10校およそ500人。
激戦の本島南部では、ほとんどの学徒隊が半数近くの戦死者を出した。
そんな中、わずか3名の戦死者にとどまったのがふじ学徒隊である。
1941年、ヘチマ襟の制服を着た積徳高等女学校の1年生の写真がある。彼女たちは、一度も憧れのセーラー服を着ることはなかった。三年後、ふじ学徒隊となる。
太平洋戦争末期、敗戦を続けた日本。
1944年10月10日の空襲(10・10空襲)で、那覇は90%が焼け落ちた。
積徳高等女学校は、仏教系の私立学校で、旧那覇市のまん中にあった。戦時色が強まる中、1945年3月13日、4年生56人に対し、軍の命令で合宿看護訓練が行われた。しかし、戦況の進展で訓練は10日間で中断、米軍上陸の1週間前に、戦場へと送りだされる。
3月23日、配属されたのは、豊見城城址にある野戦病院壕。
隊長は、長野県出身の小池勇助軍医少佐。隊長は、56人に従軍か除隊かの調書を取る。結果、31名が除隊。25名が従軍、ふじ学徒隊として勤務する。
1945年4月1日、米軍沖縄本島上陸。地上戦に突入。
野戦病院壕のふじ学徒隊は、手術の補助、切断した手足の廃棄、傷病兵の看護、水汲み、食事の運搬など不眠不休で取り組む。
野戦病院壕の近くに海軍の司令部壕があった。ここから、戦況を伝える3000通の電報が発信された。
戦況は悪化、5月22日、沖縄守備軍は首里を放棄、南部へ撤退。
5月27日、豊見城野戦病院壕も糸洲壕へ撤退。
残された重症患者を青酸カリで処理せよと隊長から島尾中尉に命令。島尾中尉は、おくれて糸洲壕へ合流。
6月4日小禄飛行場に米軍上陸。
6月13日、大田実少将、海軍壕内で自決。
糸洲壕では、学徒隊は、米軍のガス弾攻撃に苦しめられる。家族に会うといって壕を出た学徒がその途中で戦死。学徒隊、最初の戦死者となる。
戦況は悪化、衛生兵は、次々と斬り込み隊として壕を出る。
米軍の総攻撃の真っただ中、学徒隊に解散命令が下り、戦場に放り出され、女子学徒の多くが命を奪われる。
小池隊長は、戦闘が沈静化するのを待ち、6月26日、ついにふじ学徒隊に解散命令を発令。
小池隊長の最後の訓示「かならず、生き残れ。親元へ帰れ」。
その数日前、隊長は、重症患者の処理を再び島尾中尉に命令。しかし、米軍の攻撃により重症患者が死亡。
小池隊長は自決。青酸カリをあおっての最後だった。学徒隊は、2,3名ずつ組を作って壕を脱出。
そのまま、ほとんどが米軍の捕虜になる。しかし、最初に脱出した3人は日本軍と米軍の交戦に巻き込まれ、学徒隊2人目の戦死者を出す。そして、戦後、戦争の心の傷から、自ら死を選んだ学徒。ふじ同窓会は、3人目の戦死者として慰霊碑に刻銘する。
もし、戦争がなかったら、平和な幸せがあった。セーラー服を着て駆ける楽しい青春があった・・・。
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