映画について

戦火から「生」が返ってくる

この実録映画「ふじ学徒隊」は、戦争のさなか暗い壕の中でうごめく傷病兵の看護に当たった女子学生「わたしたち」が、さまざまなできごとにぶつかりながら「死の教育」をくぐりぬけて、人間らしく生きていこうとする、歩みの記録である。

映画は、積徳高女学徒看護隊の野戦病院実録『血と涙の記録』を基本にして組み立てられた。つまり「戦場に散った、そして生き抜いた少女たち」の姿である。沖縄戦の学徒看護隊といえば女子師範学校と県立一高女の「ひめゆり」、県立二高女の「白梅」、首里高女の「ずいせん」を思い浮かべるが、それはほとんどが「死」への道につながった。昭和女学校の「でいご」も同様であろう。しかし積徳高女の「ふじ学徒隊」は戦火の「死」から「生」を持ち返ったのが多かった。

豊見城城址の壕に隠れていたのは山部隊第2野戦病院。ふじ学徒たちは、そこで”戦場“ を体験した。「壕の外まであふれた負傷兵、壕内の血の臭い、膿みが内臓から湧き出て、排泄物もウジ虫もごっちゃ混ぜになって耐えられない。それでも耐えてきた。中には脳症を起こして騒ぎ出す兵もいた」(『血と涙の記録』より)と言うように、実に生々しい体験記録であり、身の毛がよだつ内容に包まれている。

野戦病院では学徒25人が看護に当たり、うち1人は戦死したが24人には6月26日(1945年)に解散命令が出た。そのとき隊長が「死んではいけない。必ず生きて親許へ帰れ」と言い残して自らは自決したという。そのような戦火の間際で、「死の恐怖」を避けて「生」を与えられたときの少女たちの感懐そのものに、僕は感動を覚える。これほどまで鮮やかに表現された例はそう多くないからである。

軍隊という厳しい枠をこえた人間の優しさに力づけられて、ともすれば見失いがちな「生きる道」の意味を発見していく。言ってみれば、人間であることの普遍的なものへの覚醒の過程であろう。映画は、48分の短いフィルムながら「沖縄戦」を告発する内容が手際よく盛り込まれている。カメラの目は広がるが、ただ記録のポイントである豊見城城跡の壕内は、ついに所有者の許可が得られず十分な撮影が出来なかったことに心残りがする。戦争体験を示す貴重な場所として後世に伝えるためにも、保存活用を促したい。

映画「ふじ」製作委員会代表  宮城 鷹夫

証言者紹介

当時を語ってくれた証言者の皆さん。

宮城 トヨ子さん
昭和16年入学 積徳高女 ふじ学徒隊
仲里 ハルさん
昭和16年入学 積徳高女 ふじ学徒隊
宮城 喜久子さん
昭和16年入学 積徳高女 途中除隊
真喜志 光子さん
昭和16年入学 積徳高女 ふじ学徒隊
渡久地 敏子さん
昭和16年入学 積徳高女 ふじ学徒隊
平良 ハツさん
昭和16年入学 積徳高女 途中除隊
田崎 芳子さん
昭和16年入学 積徳高女 ふじ学徒隊
嘉手納 米子さん
昭和16年入学 積徳高女 ふじ学徒隊
新垣 道子さん
昭和15年入学 積徳高女 ふじ同窓会長
名城 文子さん
昭和16年入学 積徳高女 ふじ学徒隊
真喜志 善子さん
昭和16年入学 積徳高女 ふじ学徒隊
大城 正祺さん
当時避難した住民

監督紹介

野村岳也

イザイホウ(49分)1966年
海の祭典(1976)
米-みのりへの道(1985)
ウリミバエ根絶の記録(1978)

監督の撮影雑記

わずか40秒だが、ラストシーンだけは、晴天で撮りたかった。
昨年末から土日にスケジュールを組んで雨天曇天順延で望んだのです。
それが、三月まで一度も晴れませんでした。
私たちは覚悟を決めて、曇でも撮ろうと恩納村の現場へ出向いたのです。
ところがどうでしょう。準備しているうちに雲が姿を消してしまったのです。
これが、今度の仕事を象徴した出来事でした。私たちは、撮影中たびたび窮地に立たされました。そんな時、いつも救世主が現れるのです。豊見城の病院壕跡の撮影を拒否された時、ある有志が写真を提供してくれたことは、最たるものでした。こんな風に大いなる何かに守られるかのように撮影が進んだのでした。

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平和を祈って

「平和を祈って」
(積徳高等女学校昭和20年卒記念誌)上原利子、小波津照子、田崎芳子らが中心となって編集、1993年に出版された元学徒隊ら渾身の戦争体験集。この本が映画の基となった。